今日は本ですが 重松清さんの流星ワゴン

今日は本のお薦めです。
重松清 著『流星ワゴン』


この重松さんの本を読むのは初めてだ。この数ヶ月、著者名には引っかかっていた。けっこうあちこちで名前を見かけるし、同世代らしい。
同世代だからどう、ってこともないのかもしれないが、やはり、同じくらいの年齢の人がどういう表現をしているのか、というのは気にかかる。
それがすぐれたものならば、なおさらだ。


感動しました。泣きましたです。ハイ。
ストーリーは細かくは記さないが、何もかも上手くいかない38才の主人公「僕」がふと、もう死んじゃっても良いかな、と弱気になった時、目の前になぞめいたワゴン車が現れ、それに乗って旅に出る...
自分の父と出会うのだが、なぜか父は自分と同じ38才。親子なのに、同じ年。実際の父はもう、死の間際にいるのに...


というようなところから始まる。
ストーリーの骨子は父と息子の相克である。そして上手くいかなくなった自分の家庭を顧みる物語でもある。
よくあるといえば、よくある話しだ。
だが、なんか身につまされる。
書き手も、物語の主人公も僕とほぼ同じ年だから、というのが大きな要素かもしれない。


僕は家庭すら満足に築くことができなかった。親しい人は知っているが、僕はバツイチである。いや、今は再婚できたから良いのですが。
離婚したことでくよくよしているわけでもないし、別れたカミさんのことを思い出したりするのも滅多にない。
だが、ある種の欠落感はずっと抱えている。それは道理や良いとか悪いとかでは割り切れない種類のモノだ。


また、父親との関係。
飛び抜けて悪いわけではなかったが、良い訳でも全然なかった。
僕は父のことをずっと尊敬できずにいたし、若い頃には(いわゆる反抗期の頃には)ほとんど口もきかなくなっていた。
ある程度はなせるようになったのは25歳を過ぎてからである。
そして、わだかまりなくつきあえるようになったのは、脳溢血で倒れてからである。そこから死ぬまでの4年間。


父だって絶対に分かっていたはずだ。息子に「ひどく嫌われていると言うほどではないが、好かれてもいない」というのは。


父が脳溢血の入院から帰ってきたあとは、ほぼ下半身不随といっていい状態だった。
自力では家の中を伝い歩きするのがやっと。
だが、ベッドに寝たきりでは、ホントの「寝たきり」になってしまう。
それが恐ろしい一心で、僕もオヤジのリハビリには、かなりつきあった。(ってえらそうに書けるほどでもなかったかなぁ)


寝たきりが恐ろしい、という気持ちだって
・親父自身のため
というのと平行して
・寝たきりになると僕や母(実質的には母が90%面倒を見ていたわけだが)の、世話にかける手間が倍以上に膨れ上がるから
という「こっちの都合」もあった。


リハビリ、と称して一緒に体操したり、近所に散歩に連れ出したり、僕がしたのはその程度のことだ。
でも、一歩がほんの30cm位しか進めない父の手を取って一緒に歩いているとき、僕の中で何かが融けた。
脳溢血は、当然頭の中にも影響を及ぼしていたから、ちょっとろれつが回らなかったり、記憶力が悪くなったりと言うことはあった。
特別いっぱい喋ったわけでもない。
だけど、いやなわだかまりなしに、小さな時みたいに親父と接することができたのは、亡くなる前の半寝たきり期の4年間である。


そんな思いがフラッシュバックしてきたからかもしれない。
感動には個人的な事情だって大いに絡むものなのだろう。
泣けて泣けて仕方がなかった。
最後の4年間だけでも、ちょっとは近づけただけで、よかったのだろうな